46 そして続けて問われた。「それより就職だとか、婚約しただとか言ってるけど子供はどうしたの? 堕ろしたの?」 私の中では妊娠なんて遥か昔のことで、訊かれた時、はぁ~いつの話だよなんて思ってしまった。 でも実際まだ妊婦だったら臨月間際なんだよね。 玲子はふたつまとめて問いかけられ、あたふたしてしまった。「離婚したあとすぐにお腹の子は流産しちゃったの。 え~っと、それからあなたが何かしたとかは思ってない。姉がね、言うには、掛居花さんのおじいさまが力のある方でそっちのほうから何か圧力がかけられてるんじゃないかって」 いいところまで突いてきてはいるが、花の祖父が俺の祖父でもあるということを知らずにいそうな玲子を見ていて、男と女のことになると、小賢しく立ち回れるのに、色事を離れるとまるっきし駄目ダメ人間なのだということが露見し、滑稽でならなかった。 しかし、玲子と違い姉の欄子という人は少しは頭が切れるようだ。 さて、その女性は、掛居花の祖父が俺の祖父でもあると知っていて玲子に教えてないのか、知らないのか……どうなんだろうなぁ。 玲子と姉の関係性によると思うが、玲子のような性悪女のことだから姉にも何か仕出かしてたりしてな。 それにしても玲子の話によると祖父茂にとことんやられているようで匠吾は内心驚いた。 フィクサーというのはどこまでも非道になれるのだと聞いてはいたが。 自分は曲がりなりにも一応玲子に引導を渡したことで落とし前をつけた形になっていることと、義父が盾になっていてくれるので首の皮一枚で繋がっているのかもしれないなと思うのだった。
47「まぁ、掛居家のことは俺にも詳しく分からないけれど、参考までに取り敢えずどうすればいいか、ということを話しておくよ。 掛居家に対して祖父母、ご両親、そして本人の花さんたちに向け弁護士を通して正式に俺と君との間には身体の関係もなければ交際すらしておらず、同僚として一緒に酒を飲んだだけであったことを証拠として書類に記載。 またふたりの間にさも肉体関係があったかのように花さんが受け取るであろう言葉を彼女に言い放ったのは自分の悪意からであったことなどを併せて記載すること」「弁護士を通すんですね。 分かりました。いろいろとお世話になります」殊勝に玲子は匠吾に礼を述べた。「これで旧財閥の総帥でもある花さんの祖父が君を許すかどうかは俺にも分からない。 だが君にはもうその道しかないだろう。 命が惜しければできることは全部したほうがいいだろうね。 君は自分の放った言葉で何人の人間を不幸にしたのか考えたこともないだろ? 俺は愛していた花とは結婚できず両親は俺のせいで財閥の跡取りになれなくなったよ。 その辺の地方貴族の跡取りとは訳が違う。 本来なら受け取れたはずの遺産も社会的地位に絶対的権力も父さんは血の繋がらない息子のせいで全て失くしたよ。 申し訳なくて申し訳なくて……。 母さんには肩身の狭い思いをさせてしまった。 玲子、俺はね、夜何度お前の首を絞めて殺そうと思ったかしれない。 お前を一生苦しめてやりたいよ」 ◇ ◇ ◇ ◇『愛していた花とは結婚できず』って、引き摺ってたのに私と結婚したんだ? 『両親は俺のせいで財閥の跡取りにはなれなくなった』 えっ、どういうこと? 向阪くんって元々財閥だったの? 花さんの家系も財閥でしょ? 元が同じ旧財閥だと知らない玲子にはこの謎解きは難し過ぎた。『父さんは血の繋がっていない息子のせいで……』えーっ、血が繋がってなかったのぉ~? 次々と知らない情報が匠吾の口からポンポン出て来てただただ驚くばかりの玲子だった。
48 一番驚いたのが匠吾が自分を殺そうと思うほど憎んでいたことだった。 『じゃぁ、私との結婚は何だったの?』 と訊いてみたいのを必死でこらえた。 「ごめんなさい。皆を苦しめてほんとにごめんなさい」 目に涙をためながらそう何度も謝り玲子は足早に店を出た。 ◇ ◇ ◇ ◇ 歩きながらセミロングのヘアーを手で斜め後ろに何度か流しながら 心に溜まっている文句を吐き出した。 「何言ってんのよ。知らないわよ。 そんな大仰なお家事情なんて。 私を親子して追い出しておいてまだ足りないっていうの? 私はね、花さんに一言もあなたと浮気したなんて言ってないってんの。 花さんだってあなたとちゃんと話し合っていれば誤解だって 分かったんじゃない? そもそもあなたの言うことを信じなかった花さんってどうなのよ。 10年余りも付き合ってたのにあなたたちの信頼関係は そんなものだったってことなんでしょ。 もう花さんがメンタル弱すぎなのよ。 周りが甘やかしてくれるからってこれ見よがしにメソメソしちゃって いい迷惑だよ」 なんという玲子のメンタルの強さ。 しかし結局は向阪のアドバイスを実行しなければ命の危険も有り得るかもしれないとも思う玲子は弁護士を雇い作成した書類を持ち、まずは花の両親の元、掛居家を訪れ謝罪をした。 彼らから『許します』とは言われなかったものの『祖父のところへは自分たちからちゃんと報告するので出向かなくてよい』と言われほっと胸を撫でおろす玲子だった。 誰も彼も……元夫の匠吾にも掛居家からも自分の発言を聞いてもらえただけで『許す』の言葉はもらえなかった。 勿論、大物らしい祖父という人も許してはくれないのだろう。 しかし、やるだけのことはやったのだ。
49 このあと自分はどんなふうに生きていけばいいのだろう。 これからの身の振り方を考えて数日過ごしたあとのこと、気晴らしに電車に揺られ海浜公園にある堤防に来ていた玲子はじっとその場に佇み、今までのことこれからのことを考えていた。 ふと気が付くと考え事をしていたせいか堤防を離れ海浜公園の中程に戻っていた。 こんな暑い中を意味もなく歩き回ったりして、いつもの自分らしくないことに気付き嫌になった。 自分らしくいられないものの正体をぼんやりとではあるが気付き始めていた。 向阪のアドバイス通り弁護士を介してお詫び行脚もしたけれど、何とも言えない不安が胸の奥からせり上がってくるのを止められず、いてもたってもいられない気持が消えないのだ。「こんなところに一人で、難しい顔をしてどうした?」 玲子は見ず知らずの男にいきなり声を掛けられてビクっとしつつ、その男の方へ視線を向けた。するとそれと同時に視界に入ってきた周りの風景は、日没時になったのか太陽がオレンジ色の輝きを放ち地平線の下に沈み始めているのが見えた。 そして再度男に視線を戻すと……「私でよければ話を聞いてやろう」と声を掛けられた。 ここはそもそもお弁当を持って来るような場所で周辺には飲食店もなく、自販機くらいはだだっ広い敷地のどこかにはあるのだろうけれど見渡す限り、自分たちの視界には見当たらなかった。 そんなことを考えたのは喉の渇きを覚えたからで、これからしゃべるのなら、何か飲み物が欲しいと思ったからだ。 私と、見た目40代くらいの男性とは、すぐ側にある石でできた長イスに少しだけ距離を置いて座り、私は取り繕ったりせずに自分がしてきた残念なこと、そのせいで何倍にもしてやり返されたこと、相手がとんでもなく力のある権力者で今頃になって怖くなり正式に謝罪したことなどを話し、けれど『許す』と言われてないことからこの先まだまだ嫌がらせが続くようなら……『死んだら楽になれるのかな』などと思いながら海を見ていたのだと告白した。
50 「それだと今も誰かに素行調査の一環として誰か調査員につけられて 見張られているかもだね」 「そうですね。 私が就職で良いチャンスを掴んだと思うと内定が取り消しになったり、結婚しよ うと思っていた矢先に相手の親族から『素行が悪いので結婚を認めるわけにはいかない』 と言われたり、絶対私を幸せになどするものかという強い意志を感じます。 当初はたまたまかなとか、今までの心映えの悪さが自分に返ってきてるのかなぁ~とか思ったりしてたけど、私の素行の悪さを指摘された時にこれは偶然なんかじゃないって確信しました」 「君の話を聞いていて思ったんだけど、一度世間から身を隠して大きな幸せ、 つまり優良企業に勤めるとか玉の輿に乗って結婚するとかを諦めて、どこか 田舎でつつましく生きていくのが最善じゃないかって思うね。幸せを感じられなくても、苦しかったり辛かったりのない生活で満足でき ない?」「幸せはなくて、でも苦しみも不安もない暮らしですか?」「死のうと思っていたその苦しみがなくなれば、それでよしとしないかい? 私は今から瀬戸内海のある離島に帰るのだが、家族のいない気楽な独り暮らしで君ひとりくらいなら泊めてあげられる部屋もある。 着の身着のまま一緒に行かないか? 車に私のジャケットがあるからトイレでそれに着替えて少し変装して、 そのまま私の車に乗り込めばなんとか追跡してる人間を撒けるかも しれないな。 余計だというなら最寄り駅まで送って行ってあげるよ。 そしてそこでさよならしよう。どうする?」 「私は島本玲子と言います。 お言葉に甘えて逃亡することにします」 「私は井出耕造。 じゃあここで待っていて下さい。 ジャケットを取りに行ってきますから。 紙袋に入れて持ってきます。 そしてそれをあなたに渡しますね。 私の車のナンバーと色を今から言いますからメモしておいて下さい。 駐車場はあそこですからね」 と井出は指さした。 「今から私が歩いて行くのを見ていたらだいたいの位置が分かると思います」 玲子は井出の言う通りに動いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ 私は井出さんの手引きで離島に無事渡ることができた。 渡ったは渡ったけれど、上手く追跡から逃れら
51 仕事が見つかり落ち着くまではずっといてもいいと井出に言ってもらえ、玲子はしばらく井出の家にやっかいになることに。 ひと月ほどで介護施設での介護スタッフとしての仕事を見付けることができた。 それと共に正式にヘルパー2級の資格を取るための勉強も始めることに。 そんな矢先に夢見の悪い同じような夢を頻繁に見るようになる。 一言の返事の対応を間違えたせいで、その後いろいろと因果応報を身に受け……井出と暮らし始めてから、急に胸が痛み出したり涙が止まらない発作が起き始め、そのうち夢の中で自分が花になっていて玲子扮する玲子から、まんまの返事をされ深い絶望を味わう。 夢を見た日は悲し過ぎて起きるといつも泣いている。 夢の中で花の立ち位置になってみてようやく玲子はあの日の花の痛みを知った。 井出の家の間取りは和室4つが互いに隣り合っている形で、見る見ないのプライバシーは守られているが、夢を見てうなされたりした時の声音やクシャミなどに関しては筒抜けだ。 それに加えて井出は小冊子のコラムを書いたり投資などもしているようで深夜、明け方に起きていることもしばしばだ。 そんな状況なので玲子が夢を見てうなされるようになると、しばらくして井出に気付かれることとなった。「なんか、最近うなされているようだが追いかけられてることと関係してるのか?」「夢の中で毎回、私が苦しめた女性の立場になって苦しくて辛い経験をしてるんです。目覚めると夢を見た日は死にたくなる」「君が私と一緒に追っ手の前から姿を消したものだから、今度は呪術を使って夢で苦しめに来たのだろうか」「そんなぁ~呪術だなんて、まさか」
52 「関係者に謝罪したって言ってたけども本丸のその花さんって人にも ちゃんと謝罪したの?」 「それが、会えなかったんです。 会わせてもらえなかったというほうが正しいかも。 ちらっと精神を病んだと聞いてるので今更私のことなんて 耳に入れたくなかったのかも。 私ってほんとに最低なことをしてるんです。 でも周囲から幾ら非難されても以前は分からなかったの、 分かってなかった。 花さんが実際夢の中で私が感じたような苦しみと悲しみを 体験していたとしたら、私は花さんの心を殺したも同然なんですよね。 夢を見た日は本当に死にたくなる。 私、夢を見るようになってよく分かったんです。 私はもう幸せなんて求めてはいけないって。 何かが私のことをずっと追いかけてきてどんな小さな幸せの芽も 開きそうになると摘み取っていくの」 「君さぁ、これから毎日心の中でもいいし声に出してもいいけど、 その酷いことをして苦しめた花さん、そしてある意味無実なのに 君のせいで有罪にされた匠吾さんだったか、そのふたりに謝ったほうがいいよ。『意地悪と嫉妬であなたたちに酷いことをした私を、充分反省しているので お許し下さい』ってね。 もうそんなことになってるのなら、そういうのしか方法はないと思うね。 夢を見なくなるまで心から謝るんだよ。 そして神仏にも祈り、助けてもらうほかないだろ。 そして時間が過ぎていくのをじっと待つしかないな。 できればこの先もこの島を出ない方がいい。 あの日あの海浜公園でぷっつりと君の痕跡は途絶えたことになってる。 だけどほとぼりが冷めて自宅に帰ったりすればすぐに見つかってしまうだろう。 結婚もしない方がいいだろうな。 そうすれば今あるささやかな暮らしは続けられるかもしれん」 「そうですね。 私、これから毎日心の中でふたりに謝罪しながら生きていきます」
53 俺のアドバイスを守り、朝な夕なに謝るべき人たちに謝罪をし、神仏にも すがっている玲子の様子が伺えた。 仕事も真面目に続いてる。 俺は玲子から悪夢の話を聞いた日にいろいろアドバイスしたのだが その時にこんなことも彼女に提案してあった。 石の上にも3年という諺があるように修行と思い3年間は我慢をして、 この先3年は独りで慎ましく暮らすこと。 元々今回のことは色恋を拗《こじ》らせた結果だからね、と。一度彼女が悪夢でうなされて起きた時、ちょうどまだ俺が仕事で起きていたのだ が何気に『怖い』と言って俺の側近くにすり寄って来たことがあった。 つくづく彼女は魔性の女だと思ったね。 出会いがこんな形でなければ俺もあの場面で据え膳を食わずにいられたかどうか、はっきり言って自信がない。 もうアラサーの域にかかっている女だがまだまだ十二分に美しさを 保っているからね。 彼女は残りの2年と数か月を果たして大人しく地味に 淡々とやり過ごしていけるのだろうか。 杞憂に終わればと思っていたのだが……。 ◇ ◇ ◇ ◇ 平日の昼下がりに初めて見る顔の来客があった。「井出ですが何か……」 「初めまして、内野と申します。 井出さんは島本さんの身元引受人ということになってらっしゃるので 彼女のことでご相談に上がりました。 どこかでお話を聞いていただけましたらと思います。 あの……突然のことで申し訳ありません」 彼女は玲子が通っている特別養護老人ホームに勤める看護職員であると 自己紹介してきた。 心を落ち着かせ、宥め、私に話をしようとしている姿が痛々しかった。 彼女の様子から俺は何やら胸騒ぎを覚えた。
111 メールアドレスを残して帰ったものの、相原からは次の日の日曜Help要請が入らなかったので体調は上手く快復したのだろう。 今日は出社かな、週明け、そんなふうに相原のことを考えながらエレベーターに乗った。 自分のあとから2~3人乗って、ドアが閉まった。 振り返ると気に掛けていた人《相原》も乗り込んでいた。「あ……」「やぁ、おはよう」「おはようございます」 挨拶を返しつつ私は彼の顔色をチェックした。 うん、スーツマジックもあるのだろうけれど元気そうだよね。 土曜はジャージ姿で服装も本人もヨレヨレだったことを思えば嘘のように元の爽やか系ナイスガイになっている。『凛ちゃんのためにも元気でいてくださいね』 心の中でよけいな世話を焼きながら先に降りた彼の背中を見ながら同じフロアー目指して歩いた。 歩調を緩めた彼が少しだけ首を斜め後ろにして私に聞こえるように言った。「土曜はありがと。この通りなんとか復活できたよ」「……みたいですね。安心しました」 私たちの間にそれ以上の会話はなく、各々のデスクへと向かった。 昼休みにスマホを覗くと相原さんからメールが届いていた。「土曜のお礼がしたい。 残業のない日がいいので明日か明後日、いい日を教えて」「ありがとうございます。気にしなくていいのに……。 凛ちゃんのことはどうするんですか?」「デートの予定が決まれば姉に預けるよ」 お姉さんがいるんだ、相原さん。 じゃあこの間はお姉さんの方の都合が付かなかったのね、たぶん。「私はどちらでもいいのでお姉さんの都合のいい日に決めてもらって下さい」「じゃあ明日、俺の家の最寄り駅で19:30の待ち合わせでどう?」「分かりました。OKです」 すごい、私は明日相原さんとデートするらしい。 そんな他人事のような言い方が今の私には相応しいように思えた。
110 気が付くと、凛ちゃんの『あーぁー、うーぅー』まだ単語になってない 言葉で目覚めた。 ヤバイっ、つい凜ちゃんの側で眠りこけていたみたい。 私はそっと襖一枚隔てた隣室で寝ているはずの相原さんの様子を窺った。『良かったぁ~、ドンマイ。まだ寝てるよー』 私の失態は知られずに終わった。 私はなるべく音を立てないよう気をつけて凛ちゃんの子守をし、 彼が目覚めるのを待った。 しばらくして起きた気配があったので凛ちゃんを抱っこして近くに行く と、笑えるほど驚いた顔をするので困った。「えっえっ、掛居さんどーして……あっそっか、来てもらってたんだっけ。 寝ぼけてて失礼」 それから彼は外を見て言った。「もう真っ暗になっちゃったな。遅くまで引っ張ってごめん」「まだレトルト粥が2パック残ってるけど明日のこともありますし、 土鍋にお粥を炊いてから帰ろうかと思うので土鍋とお米お借りしていいですか?」「いやまぁ助かるけど、君帰るの遅くなるよ」「ある程度仕掛けて帰るので後は相原さんに火加減とか見といて いただけたらと……どうでしょ?」「わかった、そうする」 私は何だか病気の男親とまだ小さな凛ちゃんが心配でつい相原さんに 『困ったことがあれば連絡下さい』 とメルアドを残して帰った。 帰り際病み上がりの彼は凛ちゃんを抱きかかえ、笑顔で 『ありがと、助かったよ』と見送ってくれた。 私は病人と小さな子供にはめっぽう弱く、帰り道涙が零れた。 こんなお涙頂戴、相原さん本人からしても笑われるのがオチだろう。 たまたま今病気で弱っているだけなのだ。 普段は健康でモーレツに働いている成人男性なのだから泣くほど 可哀想がられていると知ったらドン引きされるだろうな。 そう思うと今度は笑いが零れた。 悲しかったり可笑しかったり、少し疲れはあるものの私の胸の中は 何故か幸せで満ち足りていた。
109「知りませんよー。 適当に話を合わせただけなので」「酷いなー。 俺との付き合いを適当にするなんて。 雑過ぎて泣けてくるぅ」 ゲッ、付き合ってないし、これからも付き合う予定なんてないんだから適当で充分なんですぅ。「別に雑に接しているわけではなく、分別を持って接しているだけですから。 そう悲観しないで下さい」「掛居さん、俺とは分別持たなくていいから」「相原さん、私、今の仕事失いたくないので誰ともトラブル起こしたくないんです。 特に異性関係は。 ……なのでご理解下さい」「わかった。 理解はしたくないけど、取り敢えずマジしんどくなってきたから寝るわ」 私と父親が話をしていたのにいつの間にか私の隣で凛ちゃんが寝ていた。 私はそっと台所に戻ると流しに溢れている食器を片付けることにした。 それが終わると夕食用に具だくさんのコンソメスープを作り、具材は凛ちゃんが食べやすいように細かく切っておいた。 それから林檎ももう一つ剥いてカットし、タッパウェアーに入れた。 スーパーで買って食べる林檎は皮を剥いて切ってそのまま置いておくと色が変色するけれど、家から持参した無農薬・無肥料・無堆肥の自然栽培された林檎は変色せず味もフレッシュなままで美味しい。 凛ちゃんが喜んでくれるかな。 そしてそこのおじさんも……じゃなかった、相原さんも。 苦手だと思ってたけどクールな見た目とのギャップが激しく、子供っぽいキャラについ噴き出しそうになる。 芦田さんに教えてあげたいけど、変に誤解されてもあれだよねー、止めとこ~っと。 ふたりが寝た後、私は自分用に買っておいた菓子パン《クリームパン》と林檎を少し食べてから持参していた缶コーヒーでコーヒーTime. ふっと時間を調べたら15時を回っていた。 さてと、重くなった腰を上げて再度のシンク周りの片づけをしてと……。 洗い物をしながらこの後どうしようか、ということを考えた。 もうここまででいいような気もするけど相原さんから何時頃までいてほしいという点を聞き損ねてしまった。 あ~あ、私としたことが。 しようがないので彼が起きるまでいて、他に何かしてほしいことがあるかどうか聞いてから帰ることにしようと決めた。
108 「ね、真面目な話、どうして保育士の仕事してるの?」「ま、簡単に言うと芦田さんにスカウトされたから、かな」「ふ~ん、相馬から苦情来ないの?」「相馬さんにはその都度仕事の進捗状況を聞いて保育のほうに入ってるので大丈夫なんですよ~」「ね、相馬ってどう?」「どうとは?」「仕事振りとか?」「相馬さんとはバッチし上手くいってますよ」「……らしいよね、周りの話を聞いてると」「周りの話って?」「相馬ってさ、甘いマスクの高身長で癒し系だろ、掛居さんの前任者2人は相馬を好きになったけど相手にされず早々に辞めてしまったっていう噂なんだけどさ」「……みたいですね。 私もチラっと聞いたことあります。 でも1人目の女性《ひと》はどうなんだろう。 相馬さんは仕事上での相性が悪くて辞められたのかもって、話してましたけど」「相馬らしい見解だな。あいつは察知能力が低いからね」『……だって。自分はどうなのって突っ込み入れそうになる』 相原さんにお粥と林檎を出し、彼が食べている間に凛ちゃんにはお粥にだし汁と味噌、卵を投下したおじやを、そしてすりおろした林檎を食べさせる。 その後、凛ちゃんの歯磨きを終えると相原さんとは別の部屋で寝かしつけをした。 眠ってしまうまでの凛ちゃんの仕草がかわいくてほっぺをツンツンしてしまった。「あ~あ、俺も添い寝してくれる人がほしいなぁ~」「早く見つかるといいですね~」 ……って凛ちゃんのママはどこ行っちゃったんだろうってちょっと気にはなるけれど、個人情報を詮索するのは良くないものね、忘れよっと。「俺に奥さんがいないってどうしてわかった?」 そんなの知らないし、奥さんがいないなんてひと言も言ってないぃ。 なんなのよ、全く。 人が折角触れないでおいてあげようって話題を、自分から振ってくるなんて頭おかしいんじゃないの。 クールな見た目とのギャップに可笑しくなってくる。
107 相原さんのお宅は120戸ほどある8階建てのマンションだった。1階のオートロックのドアの前でインターホンを鳴らす。「こんにちは~、掛居です」インターホンを鳴らして声掛けをすると彼から『あぁ、鍵は開けてあるので部屋まで来たら勝手に入ってください』と言われる。 ********「こんにちは~、掛居ですお加減いかがでしょうか」私が挨拶をしながらドアを開けて家の中に入ると、私の訪問を待っていたかと思われる相原さんが奥の部屋から出て来た。「熱が出ちゃってね。 一人ならなんとかなるだろうけど、チビ助の面倒までとなるとちょっとキツくてね。 Help要請してしまったんだけどははっ、掛居さんが来るとは予想外だった。 なんかヘタレてるところ見られたくなかったなぁ~」『へーへー、そうですか。 私も来たくなかったけどもぉ~』と子供っぽく心の中で応戦。「芦田さんじゃなくてスミマセンね。 ま、私が来たからには小舟に乗ったつもりでいて下さいな」「プッ、大船じゃなくて小舟って言ってしまうところが掛居さんらしいよね」 何よぉー、知ったかぶりしちゃってからに。 私のこと知りもしないクセに……って、反撃は良くないわよね。 私の繰り出した寒《さ》っむ~いギャグに付き合ってくれただけなんだから。「ふふっ相原さん……ということで私、凛ちゃん見てるのでゆっくり横になります? それとも何か口に入れときます?」 今は積み木を舐めて『アウアウ』ご満悦な凛ちゃんを横目に彼に訊いてみた。「う~ん、じゃあ買ってきてもらったお粥だけ食べてから寝るわ」「林檎も剝きますね。林檎、嫌いじゃないですよね?」「好きだよン」 わざとなのか病気のせいなのか、鼻にかかったセクシーボイスで私をジトっと見つめ意味深な言い方をする相原さん。「ね、相原さん……」「ン?」「ほんとに熱あるんですかぁー? 仮病だったりしてー」「酷い言われようだなー、参った。 お粥と林檎食べたら大人しくするよ」「そうですね、病人は大人しくしてないとね。 さてと、準備しますね。少しお待ちくださぁ~い」
106 「そういうことなら相原さんはやっぱり掛居さんにお願いしたいわ。 実は……掛居さんだから話すけど、私はカッコイイ男性《ひと》は緊張しちゃって駄目なのよー。 おばさんが何言ってんだーって笑われそうだけど。 そんなだからこの年になっても未だ独身なんだけどね」「芦田さん、私は笑いません。 私も相手が素敵な男性《ひと》だと同じです。 緊張しますもん」 相手に合わせて? 調子のいいことを言いながら自分自身に問いかけてみる。 私は匠吾だけを見て生きてきたので素敵な男性なんて他の人に対して思ったことがないんだよね~。 多少いたのかもしれないけど、私にとっては普通の男性《ひと》としてしか接してないと思われ、素敵な男性だと緊張するという経験は……なかったわっ。 ただ相原さんの場合は特殊というか、かみ合わなくてあまり接触したくないのよね。 だけど芦田さんの乙女チックな気持ちもよく分かるのでしようがないなぁ~。「ありがと、掛居さん。 私がいい年をしてこんな恥ずかしいこと話したの初めて。 共感してもらえてうれしいっていうか……。 じゃあ、今回の相原さんのお宅訪問の詳細はメールで送らせてもらっていいかしら」「はい、大丈夫です」「メールで説明してある項目以外は本人の意向を聞いてもらってお手伝い進めてもらえばいいです」「はい、分かりました」 電話を切り、メールをチェック。 凛ちゃんのことが気に掛かり、私は大慌てで出掛ける準備をした。 訪問する前に頼まれているモノをどこかで買わなきゃ。 さて、Let’s go.
105「お待たせしました、掛居です」「休日でお休みのところ、ごめんなさいね」「いえ、大丈夫です。自宅訪問の件ですが行けます。 伺う時間とサポート内容、場所、それから滞在時間の目安など教えていただけますか」「有難いわ、助かります。 詳細は後からメールで送るわね。 掛居さんに担当してもらうのは相原さんなの。 場所は……」 私は『相原』という名前を聞いた途端、頭やら耳の機能が停止してしまったようで、芦田さんの話してる言葉が何も入ってこなかった。 いゃあ~、人を差別するというか、この場合自分の好き嫌いで選別してはいけないこととは分かっているものの、先月の彼とのエレベーターでの出来事を思えば、どんな顔をしてサポートに入れるというのだ。「もしもし?」「あの、芦田さん、できれば他の人と……つまり芦田さんが訪問する予定のお宅と替わっていただけないでしょうか」「……」「掛居さんは私が受け持つ人とは面識がないし、というのもあるし、ちょっと恥ずかしいんだけど言っちゃうわね。 私、独身でしょ、だから男性のお宅へ伺ってサポートっていうのは恥ずかしくて」 それを言うなら私も独身、しかも花も恥じらう? まだ20代ですってば。「あ、掛居さんも独身だけど相馬さんとも親しくしているって聞いてるし、男性に耐性あるんじゃないかと思って」 そんなこと誰に聞いたんですかぁ~、保育所勤務なのにぃ~、噂って怖いぃ~。「付き合ってるのよね?」「いえ、付き合ってません」 えっ、私ってばそんなことになってるの、知らなかったー。 相馬さんは知ってるのかしら。「でも親しくしてるのはほんとよね?」「個人的に親しくしてないつもりですが……。 そうですね、彼の仕事を手伝ってるので職場では親しくさせてもらってます」
104 夜間保育に係わるようになって3ヶ月目、秋も一段と深まり時に寒さが身に染みる季節になってきた。 あぁ、仕方がない、重い腰を上げる時がやってきたのだ。 本格的に冬物の衣類を収納ケースから取り出し、クローゼットに吊るさないとなぁ~などと花が休日の予定をぼぉ~っと考えながらまったりと寝起きのミルクティーで身体を暖めているところへ、芦田からの1通のメールが届く。 三居建設(株)の子育て支援はほんとに手厚い支援体制になっていて、子たちの親が病気になった時には保育士の手を必要としている場合、自宅訪問をしてサポートしてくれるのだとか。 芦田さんからの連絡はうちの会社ではそのような環境が整っていることの説明と今回正規雇用の保育士2人に対してHelp要請が3件入ってしまい、大変申し訳ないが可能な限り3人目のサポートに入ってほしいというものだった。 メールを読んだなら芦田さんまで電話してほしいと書かれてある。 サポート支援のことなんて今初めて聞いた。 おじいちゃんは知っているだろうか。 誰がこんなすごい制度を提案し作ったのだろう。 素晴らし過ぎるぅ~。 だけどしばし待たれよ。 私って元々保育所にいない人材でしょ。 今までは今回のようなシチュエーションはなく、無事上手く仕事が回っていたのかしら。 自分がサポーターとして社員のお宅へ出張って行けるのか行けないのか……迫られているというのにそんなふうな今まではどうしていたのだろう、なんてことばかり考えが過るのだった。 気が付くと15分ほど経過していた。 いけないっ……私は急いで芦田さんに電話を掛けた。
103 目の前の女は俺の問い掛けには答えず、涙をためた目を見開いて穴の開くほどじっと俺を見ている。 ここで俺は大人げないことをしている自分の所業に気が付き、恥ずかしくなった。 そうだ、なんでこんなに彼女のことを構うんだ。 相馬の彼女だというのに。 自分の愚行にどっと疲れを覚えた。 ボタンから俺の指が離れ扉が開いた途端、スルリと彼女は俺の前からすり抜けて行った。相原清史郎《あいはらせいしろう》は周りから見られているイメージとは180℃違っていてウブで自分に自信のない人間だった。 そんな彼は女性に対しては中身重視。 好きになった相手とは絶対遊びで付き合えない。 相原は当初、相馬付のサポーターとして担当に着任した若くてそこそこ可愛い女子社員を見るにつけ、ご多分に洩れず多少の羨ましさを感じていた。 しかし、来る派遣社員、派遣社員、二人共長続きせずあれよあれよという間に辞めてしまい、女子社員と一緒に仕事をするというのは予想以上に難しいものなのだという認識を強くした。 彼女たちが辞めていった理由として周囲から漏れ伝わってきたのはモテ男相馬に恋心を抱いて玉砕したから、というものだった。 それ故、おばさん《おじさん》気質で周囲と同じようについ3番目に着任した掛居花の言動、つまり様子をそれとなく気にするようになっていた。 そんなふうに野次馬根性で気にかけていた女性《ひと》が娘の保育所に現れたものだからつい、興味を覚えたのだ。全く繋がりのなかった立場から細い糸で彼女と繋がれたのだから多少気持ちが浮ついてもしようがないだろう。 これは日常会話くらい話せるようにならなくてはと声を掛けるも、滑ってばかりのようで掛居から余り良い反応を得られず、普通に話せる間柄になるのには万里の長城(北海道から沖縄まで日本列島をぐるりと囲む距離)ほどもの距離があるのを感じ、寂しく思った。 そしてスマートに成り切れない自分に対して臍《ほぞ》を嚙む思いだった。